関東大震災から100年余りが過ぎた。
当時の記録を読むと、倒壊した街並みや火災の凄惨さだけでなく、社会そのものが不安によって急速に変質していく様子に目を奪われる。
流言飛語が広がり、人々は疑心暗鬼に陥り、社会は排除と暴力へ傾いた。
その後、日本は世界恐慌に直面し、政治不信と社会不安の中で軍部の影響力を強めていく。
もちろん、現代日本と当時を単純に重ねることはできない。
しかし、巨大な不安に直面した時、人間社会が驚くほど脆くなるという事実は、時代を超えて共通している。
近年、南海トラフ地震や首都直下地震への危機感が高まる一方で、私たちは別の大きな変化にも直面している。AIの急速な進化である。
一見すると、自然災害とAIは無関係に思える。
だが、両者には重要な共通点がある。
それは、「社会の前提を揺るがす」という点だ。
震災は、インフラや制度への信頼を揺るがす。
AIは、知識や技能の価値のあり方を変えつつある。
特に生成AIの普及によって、知識や情報は急速に「希少性」を失い始めた。
コード生成、文章作成、要約、検索――かつて専門性と呼ばれた領域の一部は、すでに機械によって代替可能になりつつある。
だが、だからこそ逆説的に価値を増しているものがある。
それは「人間を見る力」である。
例えば、組織におけるトラブルの多くは、単純な技術不足だけで起きるわけではない。
仕様変更の背景には顧客の不安があり、障害報告の遅れには心理的萎縮があり、炎上案件の裏には組織構造やコミュニケーション不全がある。
つまり、複雑な現実を動かしているのは、常に人間である。
AIは大量の正解を提示できる。
しかし、「何を大切にするか」「なぜ人はそう振る舞うのか」という問いには、依然として人間自身が向き合わなければならない。
企業の人材育成もまた、転換点を迎えている。
特にシステムエンジニア教育は象徴的だ。
従来は、知識や技術の習得が育成の中心だった。もちろん基礎技術は今後も不可欠である。
しかし、AIによって知識取得コストが劇的に下がる時代には、「何を知っているか」だけでは差別化できなくなる。
むしろ重要になるのは、「どう世界を見るか」である。
人を見る。
構造を見る。
歴史を見る。
失敗を見る。
空気を見る。
欲望を見る。
こうした「世界への解像度」を高めることこそ、これからの教育の核心ではないか。
例えば、歴史を学ぶ意味も変わる。
単なる年号暗記ではなく、「人間は不安の中でどう変化するのか」を理解することに価値がある。
関東大震災後の流言や排除の連鎖も、決して特殊な時代の特殊な人々だけの話ではない。
不安と混乱の中で、人間社会は容易に分断へ傾く。その脆さを知ることは、現代を生きる私たち自身への警鐘でもある。
一方で、人間は不安の中でも支え合う存在でもある。
東日本大震災では、地域コミュニティや個人同士のつながりが、多くの命を支えた。
結局のところ、社会を最後に支えるのは制度だけではない。
人と人との信頼である。
AIが進化するほど、効率や速度はさらに高まるだろう。
だが、その一方で、「誰の言葉を信じるか」「誰と働きたいか」という問いの重要性は増していく。
それは、技術の時代が終わるという意味ではない。
むしろ逆である。
高度な技術社会だからこそ、人間理解や歴史理解、そして他者と現実を共有する力が、より重要になるのである。
いま求められているのは、単なる知識教育ではない。
不安定で複雑な時代を前に、人間と社会を多面的に見る「解像度」を育てることではないだろうか。
それは企業教育だけでなく、日本社会全体に突き付けられた課題でもある。


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